ここのところ続けて「星亮一」氏の著作を読みました。
星さんは仙台市で1935年生まれました。
多くの著作のほとんどは会津藩に関するもので、新選組・白虎隊に興味のある方なら
一冊は読んでいると思います。
星さんの語る戊辰戦争はわかりやすいです。
書かれる文章は冷静でおだやかですが「会津は朝敵ではなかった」・・・・これが強く根底にあります。
幕府や薩長をただ悪く言うのではなく、会津の失敗も認めた上での意見は信用できると感じました。

敗者の維新史/会津藩士荒川勝茂の日記(中公新書)

よみなおし戊辰戦争/幕末の東西対立(ちくま新書)

会津藩はなぜ「朝敵」か(ベスト新書)

最後の将軍徳川慶喜の無念

「敗者の維新史」と「よみなおし戊辰戦争」は、2冊を合わせ再編され三修社から「戊辰の内乱」として出ています。

「よみなおし戊辰戦争」の最初に、著者が青森で会津藩士内藤介右衛門の末裔と会う話があります。星さんはそこで「泣血氈」を手渡されるのでした。
「泣血氈」とは歴史的な毛氈(もうせん)です。
会津藩は籠城の果てに慶応4年9月に降参しました。
追手門外で降伏式に臨んだ折、松平容保が椅子に座る敵の軍監に降伏謝罪の嘆願書を差し出しました。
このとき容保が立った真っ赤な毛氈を重臣たちが分け合い、いつかの日かこの屈辱を晴らさんと誓ったといいます。
この毛氈を秋月悌次郎が「泣血氈」と名づけました。

「先祖の血と涙がしみついた」毛氈を預かり、星さんはこれを見つめながら
会津の作品を書き続けることにしたいと思ったそうです。

末裔の方も星さんの著作から、正しい歴史(自分たちの祖先の無念)を伝えてくれる人として
信頼されたのだと思います。

「徳川慶喜の無念」は慶喜の動きを中心とした幕末~明治について書かれています。
これを読むと慶喜も不運な人だと思います。

自分の後ろ盾になるはずの水戸藩(親にも家臣にも)に足を引っ張られてばかりです。
そのため大奥から嫌われ14代将軍になりそこねたり、ただでさえまとまりのいない幕閣で孤立無援になったりしてしまいます。

一ツ橋家は藩でないから大きな武力を持っていない。尊王攘夷派の水戸は命を狙ってくる。
頼るのは会津藩のみ・・
慶喜の弟を養子に取らされた会津藩はもっと不運としかいいようがないです。


「敗者の維新史」の会津藩士の日記を読むと、徳川慶喜も勝海舟もずるい人だと感じます。
ただ生き残ったというだけでなく、食うものや住むことに困らなかったというだけで恵まれすぎていたと思うのです。
共に妻や子どもたちだけでなく妾とも呼べる女性たちと一緒に広大な屋敷に住み、なに不自由なく暮らし人生を全うしました。
慶喜も海舟も奥羽越の戦争を無視し、終わっても手を差し伸べませんでした。
存命中に書かれた慶喜の伝記にも無念の思い、将兵たちへの思いやりのことばはなかったといいます。

徳川家康の再来と言われた徳川慶喜は、その英才を生かす時代に生まれなかったということでしょうか。
幕末で活躍した人たちを知るたび、時代に生かされた人とそうでない人がいるのだと感じています。
坂本龍馬も高杉晋作も明治を見ずに亡くなりましたが、彼らが新政府で活躍できたかはわかりません。「あのとき」を生きるようにと歴史の手が彼らをそこに配置したと思います。

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コメント 2

通りすがってごめんなさい  2011, 02. 15 (Tue) 14:55

No Title

ソースが全て小説家の作品ですね…汗

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-  2008, 02. 05 (Tue) 02:26

徳川家は戊辰戦争を無視したというよりとても手出しできる状態ではありませんでした。
星先生も会津中心的歴史観で納得できない面もあるのですが特に勝海舟について弁護しますと、
江戸無血開城後、今後の生活の保障の無い数万人規模の徳川難民がうまれ勝海舟はこれら難民達の今後の生活の保障を立てることに精一杯で、開城後の後処理というのは戦争をする事と同等に難しいこと、けっして戊辰戦争を指をくわえて傍観していた訳ではありません。それどころか箱館戦争に行った榎本武揚ら抗戦派グループの家族の面倒を見ているし、また戦後には勝海舟と共に徳川家臣団救済活動をした元会津藩士林惟純を通じて、戦後の会津藩士にも救済の手助けをしてます。

徳川慶喜については確かに恨んだ家臣もいましたが支えた家臣も多くいたことは事実です。もともと星先生は勝海舟、慶喜嫌いですから著作もそれなりの見方しかしません、
徳川慶喜に関しては
家近良樹著「徳川慶喜」
河合重子著「謎解き徳川慶喜」
がお薦めです。

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