上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ノーベル賞を受賞された博士のインタビュー。
「自分の研究室にここ数年勉強に来るのは韓国や中国の留学生ばかりだ。日本人はもっと海外へでるべきだ」

私などは日本語もあやしいので英語で会議するとか、授業を受けるとか想像できない世界です。

交通の発達した、教育環境も整った現代でさえたいへんそうなのに今から140年も前に
海外に渡って知識を得ようよした若者達はすごいと思います。

この本はそんな留学生達をとりあげた本です。

密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士 (NHKブックス)
有名な長州の五人の留学生~長州ファイブたちも相当苦労しています
伊藤俊輔と井上聞多も横浜から4ヶ月もかかってロンドンに着いてます。
二人の乗った船は小さく、英語の取り違いから水夫として扱われた二人は慣れぬ生活に体調をくずしたり
国を思っては毎夜涙したといいます。

それほど苦労して始めたロンドンでの勉強を半ばで切り上げて長州に戻る井上と伊藤。
それは長州が連合艦隊に砲撃されたというニュースを知ったから。
「攘夷」という藩論を覆すために戻る二人は残りの三人に
「自分たちがもし失敗してもやがて開明の世が来る。そのときのためにここに残ってくれ」
と言います。

結果的に短い留学期間が彼ら(井上・伊藤)を「政治家」にしたと書かれてました。
「志士的精神基盤(行動力・気魄・強固な意志」と「近代的精神」がほどよく合わさったというのです。


残った三人は約二年後1865年4月(元治二年)にロンドンで薩摩の留学生19名と会います。

長州とは違い大型の蒸気船を乗り継いでの旅。彼らの留学は藩の開明策の一環でした。
よって生活費潤沢で恵まれていた


長州の山尾がグラスゴーまでの旅費頼むとカンパしてくれています。
しかし遠藤は過酷な生活に肺を病んで帰国します。

高杉が四境戦争のために自らの留学をやめるのは「龍馬伝」でもやっていました。
このときそ高杉は自分の代わりに三人の若者【南貞助・山崎小三郎・竹田傭次郎(事情で後に渡英)】を留学をさせていました。

南・山崎はロンドンに着いて宿舎だけは決まったものの、資金もなく厳しいロンドンの冬を火もなく過ごした山崎は肺病で22歳で亡くなりました。
彼の墓はロンドンにあるらしい。
高杉は井上に留学生たちの援助と礼遇を持って埋葬してくれた礼状を君主自ら書くことを頼んでいます。

留学生に夢を託し高杉は亡くなります・・・

高杉の井上への書簡9月29日付(翌年4月14日逝去)

小生事も戦争中風邪に当たり、それより肺病の姿に相成、既に四十日余も苦臥まかりあり候、
当口参謀の任はすべて前原に托し、唯一図に保養のみに日を送り候、実に尸位素餐(しいそさん)、愧慚(きざん)の至りに御座候


※尸位素餐・・・・何の働きもなくして給料をもらっている事。禄盗人(ロクヌスビト)。
         役職に付きながら何もしないで給料をもらっている事。(漢書)


※愧慚・・・・・・自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。

高杉のくやしさが伝わる手紙です。

日本が世界に出て行く過程で大きな役割を果たしたのはいち早く諸外国の文化・技術を学んだ人たちでした。
しかし自殺してしまった留学生、維新後に活躍の場がなく貧窮した者などもあったのでした。
欧州やアメリカに大使としてふたたび赴任していった留学生たちも過労で早世したりしています。

井上馨や伊藤博文は「政治家」になり、留学生達にぴったりの役を振り当てる舞台監督を務めたのでした。






関連記事

コメント - 0

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。