晋作と龍馬の下関
2010/09/10(Fri)
「Go Plain!」のAki1031さんのところで知ったのですが「吐血」と「喀血」は違うだそうです。

「龍馬伝」の予告で高杉晋作は労咳(結核)のため血を吐いていたのですが、この場合は「吐血」ではなく、気管支・肺などから出血して血を吐き出しているので「喀血」でした。

新選組の本を読んでいるときにも何度もあった言葉だったのに間違えていました。

失礼しました。
さて、慶応二年の一月薩長同盟に立ち会ったあと、龍馬は寺田屋で襲撃されました。
このあと、中岡慎太郎の媒酌でお龍と祝言。
薩摩藩の庇護のもとお龍と長崎~鹿児島~長崎と移り六月にはユニオン号(乙丑丸)で下関へ
幕府と長州の第二次戦争が始まります。


このころ(六月)から高杉の体調は激務もあって悪くなっていったようです。
(実は慶応元年七月ごろから不調のきざしはあったらしい)



九月に休戦協定が話し合われたころ西之端町の入江和作宅で療養に入ります。
その後桜山に移り翌年春二月には新地町の林算九郎の離れで最期を迎えるのです。

偶然にも同時期に坂本龍馬もお龍を連れ下関の伊藤助太夫宅(自然堂)に住んでいたのでした。
ここにお龍さんを残し長崎そして京へ上って最期を迎えた龍馬。

伊藤宅は阿弥陀寺町。
下関の西と東で幕末を駆け抜けた二人が居た・・・

不思議なめぐりあわせです。


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