徳川慶喜という人は評価が分かれる人です。
とはいえ誰でも完璧な人はいないし、多くの偉人たちも見る角度で表情は変わってきます。

幕末のドラマは、その登場人物の子孫が現在も生きているという面で
極端な書き方はできないと思われます。
特に皇室や徳川家については多分に配慮があるような気がします。

徳川慶喜といえば、鳥羽伏見の戦いの最中に江戸に帰ったという「謎」があります。
江戸に引き上げて策を練るということはありだったとしても
一度は「総攻撃する」といいつつ、容保らだけ連れて脱出したことは慶喜贔屓の人も
理解できないことのようです。

さて大河ドラマ「翔ぶが如く」ではどう描かれているかというと・・・・そこはさらっとスルーでした(笑)
慶喜は三卿一橋家の出身。三卿は武力を持ってません。

  「予が将軍になったとてなにができよう。予は徳川一門の生まれである。
   それゆえ徳川宗家を継いだ。それゆえ幕府を捨てることは徳川の当主としてはできぬことよ。
   じゃというてこれからは旗本の武には頼れん。これからは英知をもって薩摩を押し込めるしかない。
   但しあくまで背景は武力ゆえ、会津家臣団が予の後ろ盾となってくれれば、予は征夷大将軍を受ける。」
      (慶応2年12月5日)

水戸出身の慶喜には「尊王」の気持ちが人一倍強かったはず。
彼が紀州や尾張出身ならこれほどの苦悩はなかったと思います。
唯一の腹心、原市之進を失い、慶喜の孤独はますます深まったでしょう。

  「土佐の周旋を受けよう。大政奉還の他には薩摩の野望は止められまい。
   面倒な政権というもの今返されて一番困るのは薩長に乗せられた朝廷ご自身であろう。
   厄介なその荷物御所の塀のうちに投げこんであとはご存分になされと言い置いて関東へ帰るか・・」
      (慶応3年10月13日)

   「将軍職を辞職せよとの詔謹んでお受け仕る。納地のことも承知した。
    あとは人心を鎮めることである」(慶応3年10月24日辞表)

将軍職返上の報に家臣や会津・桑名の兵は憤りますが、慶喜は大阪へと向かうことを決めます。

    「よいか慶喜が腹切って死んだと聞けば汝らの勝手にすべし、だが生きておるかぎり、わが下知に従え。
     決して薩長の挑発ににのってはならぬ。他日を期せ。慶喜が従うときはその日は必ず来る。」
       (12月12日下阪)

しかし、西郷らはすでに江戸で騒ぎを起こすことを手配しており、薩摩藩邸が焼き討ちにあった知らせを受けます。

   「たわけめが・・われらから打ち出せば逆賊の汚名を着せられるというに」


鳥羽伏見の戦いは薩長軍の新型兵器により苦戦をしいられ、大阪城まで撤退をよぎなくされます。
板倉・松平容保ら側近のみを集めて告げた言葉は・・

   「これより江戸に帰る。関東に帰ってことを決める。なるほど撃ってでればよい。
    だが、薩摩の西郷に匹敵するものがこの陣営におろうか?」
   「おりません」
   「ならば大久保一蔵に匹敵するものは・・・」
   「残念ながら」
   「われらこの大阪にいてもなにもできん。
    だが江戸へ戻れば関東の兵力を背景に徳川家のためになんとでも策はたてられるのじゃ。
    わが軍艦、開陽を使おう」
       (明治元年1月6日江戸へ)

このとき松平容保に 「およばずながら上様の身をお守りいたす」と言わせてます!
城を出るところはなくて、場面はいきなり江戸に移っています。

12日に江戸に帰った慶喜は幕政から遠ざけていた勝海舟を浜御殿に呼びますが
対面した慶喜はいまにも涙を流さんばかりの悲痛な面持ちでした。

 「錦の御旗がでた・・・・時の機運はもはや慶喜にあらず。ひたすらに恭順するほかはあるまい。
  そのほう・・あとをよろしく取り計らえ。」


このとき勝は板倉に会津のことをたずねます。

  「会津様には?」
  「お国許に追放なされた」
  「追放?」
  「会津は新選組にあまりに多くの勤皇の志士どもを斬らせた。 
  上様の恭順を示されるにあたっておそばにおくにはあまりにも血で汚れておる。」
  「あいかわらずお手前方のお考えは邪魔となったものは切り捨て、延命策をはかるだけでござるな。」

呆れ顔の海舟さん。でもその海舟も旗本たちが中心の彰義隊を切り捨てたのだからえらそうなことは言えません。
寛永寺に謹慎するため江戸城をでるところで慶喜の出番は終わりました。

歴史上徳川慶喜がどういう役割だったにせよ、江戸に住む人にとって「将軍・公方さま」は特別なものだったと思います。
京都の人が天皇のそばで生きてきたように江戸は将軍のおひざもだったのですから。

幕末のドラマ・本などを見ると、あのころの政治は「京都」で行われていたのだなあと感じます。
どんどん変わっていく情勢をとらえるにはまずは京にいなくてはいけなかった。
そして何かを動かしていく工作もまた京で行われたのでした。

京を離れられない慶喜は慶応3年、老中のひとり稲葉正邦を国内事務総裁として江戸に行かせました。
稲葉正邦は淀藩城主。そう鳥羽伏見の戦いで幕府軍に城門を閉ざしたままだった淀城です。
板倉勝静でなく稲葉を江戸に使わしたのは失敗だったかもしれません。
稲葉正邦は京都所司代経験者だったので、不安な政局にもまれてきました。
彼なら朝廷という「いいかげん」なものが政治を動かすということをよく知っていたので
違った対応ができたかもと思うのです。








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